2012年1月
販売終了間近!『MARCH学習院あるあるチェック』
あっという間に1月も終わろうとしています。期間限定販売の『MARCH学習院あるあるチェック』の申し込みは、本日1月31日24時までとなっております。
明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学・学習院大学それぞれの日本史について、要領よく入試対策をしたい人にお勧めの教材です。過去21年間の出題データにもとづいて、各大学の出題傾向を見極めています。
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早稲田予備校で「早慶大日本史最終チェック」を受講した方へ
早慶大日本史あるある問題(244)の解答が「aウ bカ」となっていますが、「aカ bウ」の誤りでした。大変失礼いたしました。お詫びして訂正します。
折りたたみ自転車でまわった佐賀・長崎(5)
いよいよ最終日です。まず原爆資料館に行きました。
原爆投下前後の様子から、戦後の核競争までたくさんの展示がされており、生き残った人たちの証言なども聞くことができました。そのむごたらしさには言葉もありません。今までに写真や映像や文章などで知っていたことでも、こうして現地で目の前に大きく見せつけられると、圧倒されるものがあります。
今さらながら「なんてことだ」と思わされたことが二つありました。一つはポツダム会談の前後の状況です。
1945年7月16日 アメリカが初の核実験
1945年7月17日 米英ソの3首脳によるポツダム会談
1945年7月18日 日本、和平調停案をソ連に提出
アメリカとしては、核兵器が完成したことにより、いよいよ日本を降伏させられるという段階に達し、いっぽうの日本は中立条約があるとはいえ、連合国側に加担していたソ連に調停をたのむという状況にあったわけです。この日付が虚しいことこのうえなしです。ポツダム宣言では降伏しなければ「迅速且完全ナル壊滅アルノミトス」と、核兵器の使用をほのめかされていたにもかかわらず黙殺し、そして8月6日のヒロシマを迎えるわけです。
もう一つうなだれたのは、長崎に原爆を投下した経緯です。8月9日、原爆投下の第一目標は小倉でした。しかし、焼夷弾の煙で視界が効かず、第二目標の長崎に移動したものの雲で視界不良だったのです。燃料がもたないので帰投しようとしたところ、雲が一瞬切れたため、すかさず投下したのです。アメリカ人のキリスト教への信仰心がどれほどのものか知りませんが、すぐそばにあったのが浦上天主堂でした。
手前の石像とレンガは当時のなごりです。後ろの新しい建物が現在の天主堂です。島原の乱からおよそ300年後、こんな形の惨劇に見舞われることになろうとは……。ヒロシマからわずか3日後のナガサキというのは、どう考えてもよけいな一発でした。
資料館を出た後、すぐ近くの原爆落下中心碑と浦上天主堂を回りました。その後も街のあちこちで原爆の傷跡を見ながら、長崎造船所史料館に行ってみました。
興味をそそる展示物はあまりなかったのですが、日本最大の造船所であるここが、どれほど国家と結びついていたのかはわかりました。戦艦武蔵はここで作られています。太平洋戦争の際、1944年10月にフィリピンの近くで行われたレイテ沖海戦で沈没した戦艦です。
そして最後の最後に出島和蘭商館跡に行きました。出島といっても、現在は完全に陸地に囲まれています。ここもかなり復元が進んでいて、各建物の中には実にさまざまな物が展示されていました。ちょっとした体験コーナーがあって、係のおじさんから長崎についての話をたくさん聞くことができました。「長崎は一時、外国だったんだ」という表現はなかなかおもしろかったです。戦国大名の大村純忠が、長崎をイエズス会に寄進したからというわけです。
これはオランダ商館の部屋の一つで、クリスマスの祝宴を再現しています。
ところでこの日、もっとも衝撃だったのは、河合塾日本史科の先生がお亡くなりになったことを知ったことでした。ちょうど原爆資料館を見終えて地上に出たところで、携帯メールを見て知りました。入試問題についてかなり詳しい方だったので、非常に残念に感じます。
地図問題が苦手です……
先日紹介していた吉野ヶ里遺跡のことを、ツイッターで「縄文時代」と勘違いしていた人がいました。さらに予備校では「縄文時代の神庭荒神谷遺跡って……」と質問してきた人がいました。二人とも時代を間違えています。縄文時代、大人気ですね。たしかに僕も好きですけど。もっと時期に注意しましょう。ノートの位置を思い出しながら語ってください。
通年授業の受講生だったら、「40面ノート検索」を使えば各用語がどこに書いてあるかがわかります。書いてないと思っても、意外と書いてあるものです。ノートにあったら「難問」とは言えません。第一、自分で書いたのに覚えてないというのは、もったいないと思いませんか?
さて、昨日のCさんから、もう一つ質問をいただきました。
<Cさん>
今頃こんな質問するのは恥ずかしい限りなんですが、地図の勉強が不安です。私はノート復元する際に地図チェックをしてるんですが、やはり問題集など買うべきでしょうか、そもそも地図の問題集というのをみたことがない気がしますが。。地図問題苦手なのでどうにかしたいです。お返事お願いします。
<石黒>
遺跡とか寺院とか、そもそも都道府県名をセットにして覚えていることが前提です。その上で次の4ステップをするべきです。
(1)旧国名と都道府県名を出題されやすいものから覚える。
(2)教科書や資料集(図説)に掲載されている重要な地図で、都市・港などの位置を確認する。
(3)中国・朝鮮の地図で出題されやすい地名の位置を覚える。
(4)問題集・過去問などで試す。
地図専用の問題集は市販されてはいますが、ちょっとやりすぎなマニアック問題集なのでお勧めしません。一番手っ取り早いのは『でる日講義-アラカルト-』を使ってもらうことなのですが……。
地図を出す大学ってありますよね……。
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高速・広範囲復習にシフトできていますか?
直前講習も残すところあと3日となりましたが、実は別の業務が始まっています。2月末までは毎日のように締切の嵐です。受験生のみなさんもいよいよ大詰めですから、馬車ウマのように猛勉してください。
というわけで、今日は2つの質問を紹介します。
<Oさん>
お久しぶりです。最近は先生の授業がないので移動中は録音したものを常に聴いてます。以前あるある正誤問題センター試験編を購入して一通り(左ページの誤文のどこが間違ってるかを答え、右ページで確認。間違ったらふせんをはりました。)学習したのですが、まだふせんの部分をやりなおしてはいません。だいたい3割くらいがふせんです。あの教材の問題は私大(明治と立教)でも活躍しますか?
<石黒>
センター試験の正誤問題くらい解けないと、よりレベルの高い明治や立教の問題は解けないでしょう。当然、習得しきってください。3割もできていないのは多すぎます。また、授業の録音を聞くのはそろそろ終えて、高速・広範囲復習に励んでください。
<Cさん>
こんにちは。(^O^)いつも藤沢河合塾で授業受けさせて頂いてます。わたしは今、一日に40面ノート7面、文化史3面復元するように努めてます。文化史は朝5時からと決めているので毎日ノルマは達成できるのですが、40面ノートのほうがなかなか思うようにノルマが達成できません。その理由に一ページあたり20分で終わらないというのがあります。復元自体は20分ほどで終わるのですが、直しをしたり間違えたところを暗記するために書きまくったりしていると40分くらいかかってしまいます。この場合、やはり7ページ終わらくても1ページあたりの質を高めるのがいいのでしょうか?それとも20分で終わらせて何周もできるようにしたほうがいいのでしょうか?お忙しいと思いますがお返事お願いします。(T_T)
<石黒>
一面を完全に復元しているため20分かかってしまうのでしょう。早い人たちは脳内復元だけですし、簡単なところはトバしているのだと思います。また暗記し直す際も、書きまくっていたら時間もなくなるはずです。書く回数はできるだけ少なくすべきです。時間の短縮化をめざしてください。
その後、Cさんからは「あれ以来復元の時間が10分程度まで縮められました。ありがとうございました!」というメッセージをいただきました。よかったですね。
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島原の乱で問われる領主って、だれ?
直前講習の大学別対策の準備が大わらわで、「折りたたみ自転車でまわった佐賀・長崎」のつづきが書けません。のこるところ1回なのですが……。そこで今日は、先日とりあげた原城にちなんだ質問を紹介します。
<Iさん>
いつもブログを拝見させて頂いています! お忙しい中恐縮ですが一つ質問させて頂きます。復習していて気づいたのですが島原の乱の際圧政を押しつけていたのが学校で”松倉重政”と”寺沢広高”と習ったのですが『難関大用語集解』を見てみると”松倉勝家”と”寺沢堅高”になっているのですがやはり覚え直した方がいいのでしょうか?それとも微妙に時期なんかが違っているのでしょうか? 回答よろしくお願いします。
<石黒>
返信が遅くなってすみません。時期違いです。”松倉重政”と”寺沢広高”は圧政を行った領主ですが、島原の乱の際にはすでに”松倉勝家”と”寺沢堅高”に代わっていました。このため乱後に処罰された領主は誰かという問題では、後者の二人になるのです。実際の出題状況からみると、後者を覚えておくべきなのです。
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理解できていますか? 江戸時代のお米の流れ
ここのところ旅行話ばかりですみません。今日は、最近いただいた質問を紹介します。
<Oさん>
こんばんは。Oです。センター試験は91点でした。もう少しとりたかったですがまあいいかなと軽い気持ちでいます。あくまで一般勝負なので2月22日(第二志望で社学も受けます)まで突っ走ります!
質問なのですが立教大学2011年2月12日実施分の問題です。「(平安時代)大学では、漢文学や中国史を扱う〈え〉道が重視され……」この空欄〈え〉にはいるものを記述で答えるのですがこれは「文章(道)」でも正解なのでしょうか?宜しくお願いします。
<石黒>
実は、最近「文章道」という表現は使われなくなっています。紀伝道のほうが安全です。
<Iさん>
おはようございます!いつもブログ、メルマガを拝見させて頂いています!過去問について質問です。
早稲田2005(一文)大問4の2番下線b(農業技術は、幕府も諸藩も農村の生産者も都市の消費者も、それぞれの立場から増産を期待した)に関して述べた文として誤っているものはどれか?
(ア)幕府は、直轄領の米の収穫量が増えると財政が改善されるので、米の増産を待望した。
(イ)直轄領の米の収穫量が増えると現地での使用にあてられるので、幕府代官は増収を望んだ。
(ウ)諸藩では、領内の米が増収になると悪化した財政を改善できるので増産を指示した。
(エ)都市の米穀商は、米が増産されると安価で米を確保できるので歓迎した。
(オ)都市の貧民は、米の増産は都市へ供給される米が増えて米価に苦しめられないので歓迎した。
答えは(イ)で僕は(オ)を選びました。この問題はさっぱり分からなかったです。どう解けばいいのでしょうか? お忙しい中申し訳ありませんがよろしくお願いします。
<石黒>
どうして(オ)を誤文と考えたのでしょうか。米の増産は米価下落につながることはわかりますよね? いっぽう、(イ)は「現地での使用」とは具体的にどういうことをさすと考えましたか? 幕府直轄領の米は江戸に送られますよ。現地で使用されることはありません。
この質問から察するに、I君は江戸時代の物流を理解しきれていない可能性が高いです。蔵元・掛屋・札差の業務内容や、西廻り・東廻り航路・南海路のそれぞれの役割などが理解できていないのではありませんか? 『読むだけ日本史(1)』と『難関大用語集解』を読み直してください。このテーマは、講義を聴かないとわかりにくいところではありますが。
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折りたたみ自転車でまわった佐賀・長崎(4)
4日め5日めは、長崎をまわりました。でも、吉野ヶ里と原城を見たことで大仕事を終えた気分では、精力的にあちこち見ようという意欲がわいてきません。自然環境の厳しい山登りとは違うので、ここは力を抜いて、自転車でぷらぷらめぐることにしました。
ところで、長崎では自転車に乗る人が少ないって知ってますか?
坂道が多くて自転車は不便なんだそうです。かわりにバスと路面電車がさかんで、同じ行き先のバスなのに、2台、3台と連なって走っているところを何度も見ました。
坂道が多いといっても、6段ギアの僕の自転車なら結構のぼれるし、最近の電動アシスト付き自転車ならかなりイケルはずです。しかし、階段だけはどうにもなりません。勢いよく自転車をこいでいると、突然、道がなくなって冷や汗をかきます。道がいきなり終わって、下り階段になっているのです。これはビビります。長い階段だと迂回せざるをえません。
平地を走るのにも気を使います。歩く人たちは自転車が通ることを想定していないかのようで、そこを通り抜けるのは気が引けます。「よそ者はこれだから……」って思われてそうな気がして、肩身が狭いことこの上なしです。信号待ちのときに見知らぬおじさんから「どこから来たの?」って聞かれたりしました。やっぱりよそ者だってバレバレですね。あとで聞いた話によれば、長崎市内には自転車屋すらないそうです。でこぼこの石畳も多いので、そこで自転車がパンクしたら……地獄でしたね。
さて、例によって最初に向かったのは長崎歴史文化博物館です。
ここはかつて長崎奉行所があったところで、その一部が復元されていました。展示の仕方もかなり工夫されていて、鎖国下の長崎がどういう土地だったのかが、非常によくわかりました。ここにもボランティアのガイドさんが何人かいて、話をうかがうことができました。展示物の説明よりも、長崎そのものの説明を聞けたのがよかったです。長崎に外国人女性が来たことがあるのか……など、ちょっとマニアックな会話もできました。
そして次に向かったのは、シーボルト記念館です。
シーボルトは幕府から特別扱いを受けていて、出島からだいぶ離れたところまで上陸できたようです。鳴滝塾があったのはこのあたりだろうとのことでした。そして、シーボルトが集めた日本に関する情報がたくさん展示されていました。国禁の日本地図を持ち出そうとしたシーボルト事件が有名ですが、日本の国力なども調べていて、オランダ派遣のスパイ説にもうなずかされます。もっともシーボルトを讃える記念館としては否定してましたけどね。皮肉なのは、その情報が今の江戸時代研究に役立っていることです。
その後は、亀山社中記念館とか、唐人屋敷跡を回りました。でも唐人屋敷ってどんなものか想像できませんよね?「大きな一軒家なのかなあ」って感じで。はい、まったく違います。これがその全体図です。
元禄の頃、長崎の人口が約6万人のうち、中国人がなんと1万人もいたそうです。南蛮貿易時代のポルトガル人からはじまって、このあたりには相当な数の外国人が来ていたのですね。混血の人はかなりいるのではないでしょうか。それを言うなら、すでに稲作伝来の時からして、はるかに多く渡来人が縄文人と混じり合ってますけどね。
唐人屋敷を一通り回りおえるともう真っ暗でした。もう見学できるところもないので、スタッフからのリクエストにあったカステラ屋「松翁軒」を探してみました。福砂屋などとは違って、東京には店舗がないんだそうです。ところがなかなか見つからず、何度も人に聞いて、ようやく閉店間際にたどりつきました。その苦労ぶりを語ってスタッフに感謝してもらおうと考えていたら、翌日、長崎空港で売っていてうなだれました。
名物のチョコラーテは確かにおいしかったです。もちろん抹茶カステラも買いました。
折りたたみ自転車でまわった佐賀・長崎(3)
3日めの目的地は、島原の乱で有名な原城です。佐賀からは、4時間半も電車とバスを乗りつがなければなりません。バス停からも距離がありますが、そこは自転車でラクラクです。そういえば電車で見かけた中高生は、純朴そうな人ばかりで、都会の中高生に慣れた目には新鮮でした。勉強している人も多かったです。
原城です。観光地化していなくてホッとしました。ここに2万数千人もの一揆勢が籠城したそうです。そして最後は全員が殺されたといいます。そんな場所ですから、さすがに派手に飾りたがる人もいないのでしょうね。実は、ここにテントを張る案があったのですが、さすがにやめました。初めての輪行で幕営までするのは、ちょっと無謀かと思ったのです。もっとも実際にここで寝たら、いくら霊感のない僕でも「何か」を感じたかもしれませんね。いや、昼間でさえもプレッシャーというか、もやーんとしたものを感じたのです。思い込みなのでしょうけど。
城の背後は断崖で要害堅固なのですが、その向こうに広がる海は、暖かな陽射しを受けて実に穏やかなのです。陰惨な戦場とのギャップで、身体が地面から1cmくらい浮いているような気分になりました。突然別世界に迷い込んだような……。しかしいっぽうで、この海からオランダ船が砲撃を加えたことを思うと、暗澹とした気分にもなりました。同じキリシタンなのに、オランダは貿易の利を求めて幕府に協力したのです。
天草四郎時貞の像です。他にも小さな墓がたくさんあって、花が供えられていました。あちこちに花が咲いていたのは、誰かが種を蒔いたのかもしれません。自分が何も持ってこなかったことを少し後悔して、目を閉じて冥福を祈りました。
帰り道、畑の中を自転車で走っていくと、農作業をしていた若いお兄さんがあいさつをしてくれました。
原城から長崎に向かう途中で、島原に立ち寄りました。一揆をおこした人たちは、ここの領主の圧政に苦しめられていたからなのですが、現在の城内にはキリシタンにまつわる遺物がたくさん展示されています。なんて皮肉なことでしょう。島原の乱からおよそ400年、あの世で両者は和解できたのでしょうか……。
その後も雲仙普賢岳の噴火で大被害をこうむったり、悲しい歴史をもつ島原ですが、水のきれいな町でもあります。湧き水があちこちで湧いているのです。きれいな水の流れを見ることができる町でした。
武家屋敷がのこる町並みの真ん中を、水路が走っていました。
折りたたみ自転車でまわった佐賀・長崎(2)
2日めは、ホテルから12km自転車を飛ばして吉野ヶ里遺跡に行きました。悔いが残らないよう、ここに丸一日あてました。おかげで遺跡部分は全部歩けたし、竪穴住居や高床倉庫など、立ち入れる復元建物はすべて覗きました。それは何十個もあったのですが。
僕が写っているのが見えるでしょうか? いくつも建っている物見やぐらの一つです。高さ12mもあります。
見おろすと遺跡の大きさがよくわかります。そして堀と城柵がものものしさを漂わせています。
真ん中の奥に見える大きな建物を、案内の人が「国会議事堂にあたります」と説明していました。もっともあくまでも想像上の復元なんですけどね。それにしても立派です。
その「国会議事堂」とやらに近づいてみました。人間との対比で大きさを想像してください。中にも入れます。というか物見やぐらや高床倉庫がたくさんあって、その中が微妙に異なっているので、いちいち登ってチェックしました。登れるものは全部登ったのです。
吉野ヶ里ではたくさんの甕棺墓が出土しています。これは出土状況を再現したレプリカです。
こんな感じで遺体を納めていたそうです。甕棺って意外と大きいんですね。なんだか冬眠中って感じです。未来には、こんな感じでコールド・スリープをするのかもしれません。
甕棺墓のジオラマです。こんなにたくさん出土したわけです。どんぐりにしか見えませんね。
体験コーナーがあって、勾玉づくりや楽器づくりができるようになっていました。僕は機織と組みひもづくりにチャレンジしました。組みひもは簡単なのですが、機織は意外と難しかったです。これは太い糸で、しかも目が粗いからラクですが、衣服に使う布を織るとなると、相当な時間がかかるはずです。
組みひもは、色を自由に組合せられるので、配色好きの僕としてはもう一本、別の色で作りたかったです。残念ながら時間切れでした。
ホテルから吉野ヶ里遺跡までの道路はクルマがビュンビュン走っていたため、排気ガスでマスクが真っ黒になりました。放射能も怖いですが、排気ガスも十分怖いですよね。まあそれを言ったら副流煙なんてのもあるわけですが。そういえば大隈先生は、83歳になってから禁煙したとのことでした。おもしろい人です。




























