赤本解答のマチガイ

2004年の法政大文学部で次の問題が出されていました。

問 つぎの文章を読み、それぞれのア~ウの中で正しいものを一つ選び、解答欄にマークせよ。

ア 685(天武14)年、天武天皇は48階の新冠位制を施行した。これによって、皇親を中心とする中央豪族の姓が秩序づけられた。
イ 690(持統4)年、飛鳥浄御原令の施行に伴って作成された庚寅年籍では、50戸1里の行政単位が設定され、性別・年令などにもとづく人身別調庸や徭役賦課体制が整えられた。
ウ 694(持統8)年には、唐制にならって造られた新都藤原京への遷都がなされた。これによって律令国家の中枢部の基礎がおかれたといえるが、内裏や官人住居は離れて設けられたため、十分に機能しなかった。

明らかに誤文なのは、ウです。「内裏や官人住居は離れて設けられた」が誤っています。内裏は藤原京の大内裏(宮城)の中に設けられたし、官人住居は京域内に建てられました。そういう形態こそが「都城制」なのですから。

さて、アとイの正誤判別です。どちらが正しいのでしょう。

天武天皇は、684年には八色の姓を定めて、皇親を上位とする身分秩序の再編を行い、翌685年には新しい冠位制度を実施して、皇親を12階に、豪族らを48階の冠位に分けたのです。この数字は覚えるべき出題頻度ではありません。この事実から考えると、アの「新冠位制を施行した」ことにより「姓が秩序づけられた」が誤りに見えます。姓の秩序は、新冠位制ではなく、八色の姓によって改められたのですから。姓は氏ごとにあたえるもの、冠位は個人ごとにあたえるものです。正誤問題では定番の「あるある問題」です。

ところが、赤本解答は正解をアとしています。イの文が誤文だというわけです。「調庸は戸籍ではなく、計帳によって課税されたからだ」というような解説がなされていました。どうなんでしょう。670年の庚午年籍は最初の全国的戸籍でしたが、戸籍を6年毎に作るようになったのは、690年の庚寅年籍以後のことです。要するに、庚寅年籍以後に人民掌握の体制を整えたと言えるのではないでしょうか?

ちなみに、旺文社の『入試問題正解』では正解をイとしていました。

この大問の赤本解答には、もう一つ疑わしいものがありました。次の文章を誤文だと言うのです。

北日本に対する律令政府の進出が積極性を加えたのは、7世紀半ば頃である。それはまず日本海側からはじめられ、647(大化3)年に渟足柵、翌年に磐舟柵を造って蝦夷への防備とした。その後、阿倍比羅夫が水軍を率いて日本海を北進し、北海道まで達していると思われる。

僕は正文だと思います。赤本解説では「北海道まで達していたかどうかは不明だから」とあるのですが、それを言うなら、「達していると思われる」って書いてんじゃん!むしろ次の文章こそが誤文ではないでしょうか?

九州南部では、713(和銅6)年に大隅国が日向国から分立した。その頃に信覚(石垣)、球美(久米)からの人々の来朝もあって、完全に西南諸島まで国家の版図にはいった。

「完全に」って言葉が入ってるのは、誤文の定番ですよ。そして、琉球まで国家支配はおよんでいませんよ。種子島や屋久島などの薩南諸島だったら朝廷に服属しましたが。さらに言えば、「西南諸島」という言い方はめったにしません。薩南諸島から沖縄、さらに石垣島あたりまでを広く言う言葉は「南西諸島」です。種子島や屋久島が服属したことは、立教や青学で以前に出されたことがありますが、覚える必要のないEランク単語です。よって、この文章は、「完全に」を見てうさんくさいと勘づき、さらに、沖縄にはその後、北山・中山・南山の3国ができることも考えて、誤文と判断するのが、要領のいい受験生です。あまり細かく勉強しても、たいした効果は出ません。誤文の見つけ方のうまい人になれば、それで十分とも言えるのです。