石黒の日々

畿内めぐり(9)-今井-

飛鳥のあとは北上し、戦国時代の寺内町であった今井に行きました。寺内町とは一向宗(浄土真宗)の寺院を中心とする町で、周囲を濠でかこんで防衛しています。古い町並がのこっていて、もう20年以上前から訪れたいと思っていた町なのです。
まず、全体はこんな感じです。

町を取り囲む濠の一部がこちらです。

かなり広範囲に古い町並が残っていますが、今も多くの人が生活しています。

町のなかの何軒かの家は、内部が見学できるようになっていました。一番大きな今西家は閉まっていましたが、チャイムを鳴らしてお願いし、なかを見せていただきました。

奥様のマンツーマン解説がすばらしかったです。あまりにも説明がなめらかで、講師として負けたと思わされました。

別の家には5連カマド(?)がありました。

これで料理しているところを想像するとちょっとワクワクしますね。

2時間でおさらいできる戦国史

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畿内めぐり(8)-飛鳥-

奈良県に入って最初に向かったのは明日香村でした。ここはだいぶ前に自転車で走り回ったことがあります。なので今回はその時見逃したところだけ行きました。まずは飛鳥資料館です。

敷地に入ると周辺で見つかった石造物のレプリカが目に入りました。その1つがこれです。

「酒船石(さかふねいし)」と呼ばれているものです。はじめ酒造りのための石組みと思われてこう命名されたのですが、実際には単に庭園に水を引くだけの石組みだったようです。作られたのは斉明天皇のころでした。ちなみに噴水の石組みまであるんですよ。
この「酒船石」は大学入試ではめったに出されませんが、早稲田では記述で出ました。例によって考古学好きの青学でも出されています。

さて、館内に入ると高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画についての展示が目を引きました。もちろんどちらもレプリカですが、古墳内部に入った気分を味わるような展示でした。、しかも二つの壁画のちがいを表にするなど、なかなかおもしろい趣向となっていました。

ほかに目を引いたのはこちらです。

これは写真問題の定番ですね。興福寺仏頭(レプリカ)です。
館内に山田寺の回廊が展示されており、そのつながりで山田寺の本尊であったこの仏頭(のちに興福寺に奪取された)が展示されていたのです。興福寺にある本物は後頭部が見えないようになっていましたが、こちらは丸見えでした。

見てはいけないものを見てしまった気分です。

ここを出た後はキトラ古墳に向かいましたが、途中で天武・持統天皇があったので立ち寄りました。夫婦いっしょに葬られているというのはなかなかイイですよね。しかも形が八角墳です。もっとも一周してみても草に覆われていて八角形であることは実感できませんでした。「天皇陵」ですからもちろん柵の中には入れません。

いっぽうキトラ古墳のほうは天皇陵ではないため、しっかり整備されていて形がよくわかるようになっていました。

きれいな円墳ですね。石室内部にはこんな感じです。

この隣にはキトラ古墳壁画体験館「四神の館」が併設されており、ダイナミックな映像で壁画を紹介していました。それは撮影できなかったので、飛鳥資料館で撮った写真で説明しましょう。

石室内の四方の壁には、東西南北にそれぞれ青竜(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)の四神(しじん)が描かれています。

これは白虎です。
高松塚古墳の石室にも四神は描かれていますが、あちらは南面が破壊されてしまったため朱雀がありません。いっぽうキトラ古墳は四面とも絵がのこっていました。その肝心の朱雀がこれです。

まるで「火の鳥」ですね。

そして天井には天体図である星宿(せいしゅく)が描かれています。

野暮ったい表現ですが、なかなかロマンチックなことをしてると思いませんか?

おまけとして先日、ウユニ塩湖で見た南十字星の写真も載せておきますね。

黄色い十字の端に星が4つあるのが見えるでしょうか。すみません。三脚なしのコンデジではこれが限界でした。さすがにこれは入試に関係ありません。

聴くだけ日本史-美術史編-

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畿内めぐり(7)-大阪府立弥生文化博物館-

大阪府立弥生文化博物館は文章だけの説明をへらし、具体的にわかる展示をこころがけていました。今日はそうした例を二つ紹介します。
奴国王が光武帝からもらった金印は「漢委奴国王」と記されていることが有名です。「倭」と書いちゃいけないことがポイントですね。ところであの金印、なぜ文字部分がへこんでいるのかわかりますか? 現代のハンコは文字部分が突き出ている「陽刻」であるのに対し、金印はその逆で「陰刻」です。
実は使い方が今とはちがっていたからです。当時はこんなふうに使っていました。

まず上のような木や竹を糸でつなげたものに手紙を書きます。それをくるくる巻いてひもでしばり結び目を解かれないように粘土で覆い、そこに印を押しあてます。この粘土が壊されてなければ手紙が誰にも読まれていない証しになるというわけです。

押しあてた印が陰刻なので、粘土側の文字は浮き立っています。これはなかなかカッコイイですね。

次に紡錘車(ぼうすいしゃ)についてです。これは石や土でつくった穴のあいた円盤で、糸をつくるのに使います。授業ではその使い方を説明するのが難しくて困っていたのですが、この博物館では人形と映像で説明していました。

流されていた映像を撮ったものなので質が悪くてすみません。

一度これで糸作りを体験してみたいものです。

ここまでで大阪をあとにし奈良県に入りました。

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畿内めぐり(6)-池上曽根遺跡・大阪府立弥生文化博物館-

堺市博物館を見た後は池上曽根遺跡に向かいました。

ここは弥生時代の環濠集落として問われる遺跡ですが、年輪年代測定法のエピソードが有名です。もともとこの遺跡は、出土した弥生土器の特徴からいつごろのものかが推定されていました。ところが1985年に大型建物跡が見つかると、その推定が間違いだったことがわかってしまいました。というのは建物に使われた柱の中に良い状態のものがあり、年輪年代測定法でその伐採年が紀元前52年だと判明したからです。これはそれまで推定されいていた時期よりも100年も古いものでした。このため弥生時代の土器編年を見直さなければならなくなったのです。遺跡に隣接する大阪府立弥生文化博物館にはその柱のレプリカが展示されていました。

ところでここの博物館は「弥生文化」と限定しているだけあって、水稲耕作についてわかりやすく展示していました。

木製農具の木鍬(きくわ)が触れるようになっていました。想像以上に堅い木でできており、簡単に折れることはなさそうでした。といってもひびが入ってしまったようでテープで補修してありますね。


こちらは木鋤(きすき)です。まるでスコップですね。


田植えの様子がよくわかるジオラマです。


現在とはちがって稲が実る時期にバラツキがあったため、実ったものから穂首刈りしていったようです。


左の二人は脱穀(だっこく)をしています。稲穂を木臼(きうす)に入れて、竪杵(たてぎね)でつくと白いお米になります。右は箕を使って籾殻を風で飛ばしている様子です。

なかなかの充実ぶりですが、湿田と乾田についての説明がまったくありませんでした。前々から疑問に思っていたこともあり、学芸員に来てもらって直接お話を聞くことにしました。すると思わぬ答えが返ってきました。要点だけ言えば、田んぼの水位は上下するため、現在は湿田と乾田の違いを言わないそうなのです。水がゆきわたりやすい低地から水田が開発されていき、灌漑技術が高まるにつれて高地でも水田が開かれていったようです。なるほど、教科書や入試は古い学説のまま出題しつづけているわけですね。はからずもこんなところで「入試は入試」と割り切る必要性を再認識することになりました。
学芸員の中尾さん、丁寧なご説明をありがとうございました。

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畿内めぐり(5)-大仙陵古墳・堺市博物館-

海外に長期出張していたため間が空いてしまいましたが、京都・大阪・奈良の旅行記をつづけます。

大阪歴史博物館で1日つぶした後は、仁徳天皇の墓と伝えられる大仙陵古墳(大山古墳)に向かいました。最寄り駅で降りて自転車で古墳にたどり着くとそこにはこんな表示がありました。

なんと悩ましい表示でしょう。左右どちらから回っても古墳の正面まで1.4kmだと! とりあえず右から回ってみました。


しかし見えるのは濠と樹木ばかりで、前方後円墳らしいイイ絵が撮れません。とりあえず古墳に隣接する堺市博物館に入ってみると、ここにもボランティアガイドさんがいたので、お話をうかがいながら見学しました。


これは古墳の副葬品です。左端が鍬形石(くわがたいし)の欠けたもの、右端は車輪石(しゃりんせき)といいます。以前に沖縄で貝輪という腕輪を見ましたが、古墳時代にはそれを石で作るようになったのです。さすがに日常生活ではつけられず、あくまでも副葬品です。どちらもめったに出題されませんが、青山学院大では注意です。両方あわせて「碧玉製腕飾り(へきぎょくせいうでかざり)」といって、これは早稲田などでも問われています。「碧玉」を書かせる問題で、立命館大でも出ました。

古墳の副葬品は時期によって変化したことがよく問われます。5世紀ころの中期古墳に多くなった風葬品に武具がありますが、その一つ「短甲(たんこう)」を見てください。

以前に群馬県立歴史博物館で見た短甲は特殊なものでしたが、こちらはよくある短甲です。

中期古墳の副葬品にはほかに須恵器(すえき)もあります。須恵器は朝鮮半島の技術で焼かれた灰色の土器として頻出ですが、受験生の盲点となりがちなのはその時期です。5世紀から作られるようになりました。大阪府には国内最大の須恵器生産の拠点「陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)」がありました。そこから出土したものがこちらです。

堺は室町時代には自治都市となり、鉄砲の産地にもなっていきます。そのため町のジオラマや火縄銃なども展示されていました。僕にとって盲点だったのは、堺市出身の人物にこのお坊さんがいたことです。誰かわかりますか?

奈良時代、僧尼令に違反しながらも民間布教にはげみ、大仏造立に貢献して大僧正(だいそうじょう)となった行基です。

きめる!センター日本史

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畿内めぐり(4)-大阪歴史博物館-

大阪歴史博物館はジオラマが大変充実していました。かなり精細に作っているので、時間が経つのも忘れてのぞき込んでしまいました。
まずは戦国時代の堺をごらんください。ここは会合衆(えごうしゅう)という豪商による自治都市でした。1568年、織田信長は足利義昭を将軍に立てて京都入りをすると、堺に対して矢銭(やせん)2万貫を要求しました。屈服するよう迫ったのです。このジオラマはそのときのことを想定しています。

門のあたりで話しこんでいる2人は信長への対応策を練っています。そこに最新情報をもった人が駆け込んできました。

江戸時代に入ると大坂は、日本経済の中心地として「天下の台所」と呼ばれました。ここには全国の大名たちが蔵屋敷をもうけて、国元から年貢米を運びこんで販売しました。

これは広島藩の蔵屋敷を再現したジオラマです。目をみはるのは屋敷内に水が引かれていることです。年貢米を積んだ船を屋敷内に引き込めるわけですね。興味深いのは赤い鳥居です。広島県の宮島にある赤い鳥居の大坂版なのです。ゆえにここにも小さな厳島神社があります。


米俵は防水ではないので、雨で濡れたりした場合は積み上げて乾燥させます。ピラミッド状に積み上げられてるのがわかるでしょうか。こうして乾燥させてから蔵に収納しました。

この年貢米の卸売市場として堂島米市があります。しかし、そこでは現物のお米がやりとりされているわけではありません。それぞれの蔵屋敷が発行した米切手(こめぎって)が売買されたのです。その米切手がこちらです。

米の量や蔵屋敷の名前などが書かれており、これを蔵屋敷にもっていけば現物のお米と交換できました。これなら簡単に転売できます。

最後は「船場(せんば)」という町のジオラマです。これはかなり大きなもので、とても全体の写真は撮れませんでした。とりあえず動画をごらんください。

石黒 拡親さんの投稿 2017年2月20日

屋根だらけでよくわかりませんよね?


この写真の中央にあるのが、大坂町人が出資してつくった私塾の懐徳堂(かいとくどう)です。


拡大するとこんな感じです。


いろんな姿をした人間が配置されています。


屋根の上に物干し場を設置してたんですね。


ガンを飛ばしあってますね。手前左は福沢諭吉だそうです。福沢は大坂の適塾で学んでいたため、ここも歩いていたということです。


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畿内めぐり(3)-大阪歴史博物館-

4日目は大阪に向かいました。ここは大坂城のそば、難波宮の跡地にある博物館です。その建設の際には遺跡を壊さないように配慮したそうで、柱の跡などを避けて建てられているのです。しかも博物館の地下にはその柱の穴を見学できるスペースが設けられていました。


わかりにくいですが、光っている円柱形は上からぶらさがっていて、柱のあった場所を示しています。

この難波宮は大化の改新の際に遷された都ですが、8世紀半ばに聖武天皇が遷した都もここです。そしてややこしい話ですが、それよりもっと前の5世紀の遺跡も見つかっているのです。

ヤマト政権の時代、ここ難波は大阪湾に面する交通の要地でした。淀川や大和川の河口で瀬戸内海と内陸部をつなぐ場所だったからです。そこに大王はやたら大きな高床倉庫を16棟以上も建てました。

この地を選んで建てたのは大王が強大な権力をアピールするためだったと思われます。そういえば同じ5世紀には大仙陵古墳(大山古墳)や誉田山古墳(誉田御廟山古墳)もつくられましたね。どちらも巨大な前方後円墳で大阪府にあります。
この遺跡を法円坂遺跡(ほうえんざかいせき)といって、これを避けるように博物館が建てられています。


高床倉庫が1つだけ再現されていて、のこりは柱の跡だけを円柱のコンクリートで示しています。隣にそびえ立っているのが博物館です。ちなみに法円坂遺跡は2014年に上智大で出題されましたが、めったに出題されません。

その後、6世紀に仏教が伝来すると聖徳太子が難波に四天王寺を建てます。

図の上にある台地上に立派な寺院が四天王寺です。ここは難波津(なにわつ)という港となり、遣唐使船はここから出航していきました。

次回は中世・近世の大坂を紹介します。

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畿内めぐり(2)-曼殊院・西本願寺-

修学院離宮の後は行き先を決めていなかったのですが、「曼殊院」の方向を示す案内板があったので、「おーっ黄不動か!」と思ってそちらに向かいました。今年の早稲田商学部で「黄」が問われた「不動明王像」のことです。


曼殊院です。
拝観料を払いながら聞いてみたところ、残念ながら「黄不動」は京都国立博物館に託してあるとのことでした。こういうことってよくあるんですよ。国宝クラスの文化作品は所蔵先では見られないことが多いです。でもせっかくなので中に入ってみました。


こちらの庭はいわゆる枯山水(かれさんすい)庭園です。砂の砂紋がきれいですね。これは中庭ですが、大きい庭のほうにも水の入った池はありませんでした。

タクシーの女性運転手から西本願寺の飛雲閣(ひうんかく)が見られるというのを聞いて、西本願寺にも行ってみました。ところが、それは法会が行われている時だけでした。ここは拝観料が取られないのでまだよかったですが、がっかりでしたね。一応、行く前に公式サイトで確認してみたのですが、はっきり書かれていなかったのですよ。

というわけで見えたのは頭だけでした。

しかたないので模型でがまんしました。この建物は豊臣秀吉がつくった聚楽第(じゅらくだい)の一部を移築したものなので、秀吉らしき人が窓に見えていました。

この後はなんと、先日「歴検に泣いた」と紹介したNさんとお会いしました。今日の町家を改修したお店で肉懐石をいただきながら、歴史・医療・予備校業会談義に花を咲かせたのです。レポートからうかがえるとおりの誠実なお医者さんでした。

京都は見るべきものがありすぎてキリがないですね。また近いうちに行くことになりそうです。

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畿内めぐり(1)-修学院離宮-

2月に1週間ほど畿内を回ってきました。
まず京都からです。大徳寺というと大仙院が有名ですが、今回は高桐院という入試に出ないところに行きました。「冬の特別公開」をしていたからです。紹介しませんが、入試に出ないからとあなどっていると驚かされますね。詳しく案内してくれる人がいて、すごさがよりわかりました。

さて、紹介したいのは修学院離宮です。後水尾上皇の別荘として入試で問われます。ここは事前に予約していないと入れないため、気軽には行けません。同じ寛永期の文化の建築物に桂離宮もありますが、こちらは何カ月も先まで予約が埋まっています。模型を作っているほど好きなのですが、なかなか行けません。


ここは相当広い敷地で、その中に上・中・下の3つの庭園があります。それぞれが結構離れているので、その間は田畑の中を歩いて移動しつながら見ていきます。宮内庁の方の案内つきです。


3つの庭園にはそれぞれ数寄屋造(すきやづくり)の建物があります。数寄屋造とは書院造と茶室建築が融合した建築様式で、桂離宮で使われていることが有名ですが、修学院離宮でも見ることができます。


奥に見える違い棚の懲りようがわかるでしょうか。霞がたなびくように見えるので霞棚と言うそうですが、なんとも絶妙なバランスです。

ずーっと登って行くと一番高いところに茶室がありました。簡素なつくりなのですが、実は細かい装飾がなされています。

中はこんな感じです。

窓の開け方が大胆だと思いませんか? 庭を楽しむことを重視しているんですね。一段高くなった畳が窓に沿ってL字型をしているところは、まるで現代のソファを思わせます。


池の周りを歩けるような庭を池泉回遊式庭園といいます。ここからだと茶室を見上げる形になります。


池はかなり大きく舟遊びもしていたそうです。右の方に舟が見えますね。池のあちこちに舟を留める場所がつくられていました。

広大さを感じていただけたでしょうか。これだけ贅を尽くした別荘ですが、後水尾上皇がここに来る時は日帰りだったんだそうです。あんぐりしました。

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悠久の歴史を感じる屋久島(3)

※このシリーズは日本史受験には何も関係ありません。忙しい受験生は写真だけ見て癒やされてください。

3日目は宮之浦岳に登ってきました。
昨夏捻挫した右足首はちょっとしたダメージにも弱くて困ります。前日トロッコ道を走ったせいかやや痛みがあり、強めのテーピングとサポーターを巻いて挑みました。

選んだのは淀川口から山頂をピストンする一番近いコースです。地図上のコースタイムは10時間越えと長かったので、真っ暗なうちからレンタカーを飛ばしました。登山口まではうねうねと曲がりくねった舗装道路が1時間弱も続きます。7時くらいに着くとすでに車が2台あって、身支度をしていたら1台から外国人が出てきてびっくりしました。若いカナダ人男性でした。

明るくなった7時半に出発。すると一足先にガシガシ登って行ったカナダ人が「お水、ワスレマシタ-」と言いながら駆け下りてきました。「おみず」なんて丁寧語をよく使いこなすものだなあと、後から笑いがこみ上げました。

巨木
天気予報ではお昼くらいからは晴れるということでしたが、そんな気配はみじんもありません。厚い雲のせいであたりは暗く、強風の上に雨がパラついていました。

一瞬の光
光が差すのは気まぐれにガスが切れた一瞬だけです。水たまりをじゃぶじゃぶ歩かされることもしばしばで、そんな悪路なのにランニングシューズで降りてくる男性二人とすれ違いました。もしやと思って聞いてみると、予想どおり前日に行われた屋久島一周レースの参加者でした。100kmも走った翌日だというのに夜明け前から登山なんて、もう変人以外の何者でもありません。

そのまま登り続けるとカナダ人の若者が早くも降りてきました。トレランの人たちのスピードにはほんと舌を巻きます。しかしこれでもう山にいるのは僕一人となってしまいました。登山口にはクルマ以外のアクセスはないので、あそこに止まっていたクルマが登山者すべてなのです。また捻挫でもしたらヤバイです。慎重に進まなければなりません。ところが森林限界を超えてからは強風に見舞われ、何度もうらめしく空を仰ぎ見ました。

山頂に着いても相変わらずガスで何も見えません。屋久杉自然館で見た映像では、山頂周辺に変わった形の巨石がいくつもあって絶景のはずです。このまま帰るのは惜しいと宿でもらったお弁当を食べながら待ちました。しかしおにぎりは冷え切っており、そこに冷たい水では体が冷える一方です。半分だけ食べてあきらめました。最後に山頂写真を撮って下山しようとしたちょうどその時、岩陰から男性が現れ驚きました。思わず「うぉっ」と声が漏れてしまいました。地元のTさんという方で、さっそく写真を撮ってもらいました。
山頂
ここにはよく来られるそうで、山頂をこえたところにある祠に案内していただきました。もっともそこは突風が直撃する場所で、岩を這って進むのがやっとでした。後で聞いたら風速20~30mだったそうです。

山頂の祠
さすがに信仰心の乏しい僕でも手を合わせる気持ちになりました。日本にあるこうした厳しい山はほとんどが信仰の対象となっています。ここからちょっと下ったところの栗生岳(くりおだけ)にもこんな祠がありました。

栗生岳の祠

Tさんと別れて下山し始めると、またランナー姿の人(Oさん)が登ってきました。またもや変人です。なんと縄文杉を見に行った翌日に屋久島を一周し、その翌日にここに来たというのです。全身ずぶ濡れで、そのワイルドさというかタフさにはあんぐりさせられました。その後、抜きつ抜かれつしながらトレランについて質問攻めをしてしまいました。翌日も鹿児島空港で一緒に食事をして、またまたトレラン講習をしていただきました。

それにしてもこの宮之浦岳は九州最高峰の山とあって、高度によっていろんな姿を見せてくれます。花之江河はこんな湿原となっています。
花之江河

ありがたいのは水があちこちに湧き出していることです。小さなペットボトルがあれば水には困りません。あのカナダ人も水を取りに戻る必要なんてなかったのです。そして川も思いっきり澄んでいます。
透き通った水

下山後に一息ついていたらTさんが降りてきました。するとトイレの裏側に樹齢三千年クラスの屋久杉があると言うのです。幹の太さがわかるでしょうか。
樹齢三千年クラスの杉1

見上げるとこんな感じです。
樹齢三千年クラスの杉2

実はTさんはこの道のプロで、屋久杉はもちろん屋久島の自然についても熟知している方でした。いやはやそんな方から直々に個別指導していただき、大変ありがたい登山となりました。Tさんからは屋久島の見どころ・穴場・お薦めスポットもお教えいただいたので、次回はそれらを満喫するつもりです。

ちなみにここには翌日も訪れることになりました。ストックを忘れてきてしまったからです。最近は山に行くたびに何かを忘れてくるようになって困っています。


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