南樺太への旅(3)

今度はサハリンの南端に向かいました。ここには日露戦争末期に日本軍が上陸しています。日本海海戦などに勝利した後、日本側の優勢を示すための軍事行動でした。その日本軍が上陸した地点には碑が立てられていました。


今は折られて上部は横倒しにされています。「遠征軍上陸記念碑」という碑文が見えますね。


上記の碑の近くに海底電信を送受信する施設跡がありました。ここから北海道まで海底ケーブルがつなげられていたのです。

話は変わりますが、日本領時代に建てられた樺太庁博物館は大変立派なもので、現在も利用されています。

サハリン州郷土博物館になっているのです。屋根に日本らしさが現れていますね。ここには昔サハリンに住んでいた人びとと北海道に住んでいた人びと文化に共通性があることを示す遺物が展示されていました。想像以上に遠くまで「丸木船」などで出かけていたわけです。


黒曜石使ってますね。北海道「白滝」産の黒曜石はサハリンにも渡っていました。


外には「奉安殿(ほうあんでん)」までありました。これは戦前の各学校にあった施設で、なかに「教育勅語」と「御真影(ごしんえい)」を安置していました。入試ではあまり出ませんが明治大では備えておくといいですよ。さすが「御真影」をおさめるだけあって頑丈にできていますね。コンクリート製です。日本では戦後にほとんど壊されましたが、こんなところで目にするとは驚きでした。ここで例のご老人は「朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ……」と教育勅語を口にしました。今でも覚えてるんですね。僕も同調したらウケたでしょうね。

サハリンツアーの話はここまでです。明日は帰りに寄った山登りの話です。受験には関係ありません。

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南樺太への旅(2)

1905年のポーツマス条約で南樺太が日本領となっても、そこには古くからいる先住民だけでなくロシア人も住んでいたんだそうです。日本の統治に従う必要はあったそうですが。そしてそこに日本の民間人、朝鮮人も移り住むようになりました。
太平洋戦争末期の1945年8月8日、ソ連は日ソ中立条約を無視して日本に宣戦布告しました。そして満州、南樺太などに侵攻してきました。


サハリンにはアイヌとは別の少数民族が住んでいました。彼らの中には日ソ間の戦争の犠牲になった人も多かったそうです。彼らを慰霊するサハリン先住民族戦没者慰霊碑です。



旧日本軍師団跡だそうです。人が住んでるのか住んでないのかわからないような古い家が建ち並んでいました。


関東大震災の時に日本で朝鮮人が虐殺された話は有名ですが、戦時中のサハリンでも同じようなことがありました。樺太在住の朝鮮人がソ連軍スパイとされて日本の憲兵によって虐殺されたのです。これはその慰霊碑です。


いっぽうこちらは樺太・千島戦没者慰霊碑です。戦争で犠牲となった日ソ両国のすべての人びとを慰霊しています。


北緯50度の国境線をまたいでいます。


ソ連軍の侵攻に備えて作られた日本軍のトーチカです。この中に日本兵が潜り込んで小さな穴からソ連兵を銃撃しました。もっともソ連軍は時速50kmで走る戦車で攻めてきたので、到底かなわなかったのです。

その戦車がこちら。右下にハトがいるので大きさを想像してみてください。

こちらは日本軍の戦車です。

カワイイ……なわけないって!

でる日講義-つながる近現代-

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南樺太への旅(1)

8月下旬にサハリン(樺太)に行ってきました。この島の南半分は一時期日本領だったことがあります。日露戦争後の1905年から終戦の1945年までの40年間です。その時の国境北緯50度をめざして北上するツアーに参加したのです。

ことの発端は今年3月に参加したシルクロードツアーでした。そこで知り合いになった方がサハリンに20回くらい行ったことがあると言うのに驚いて「機会があったら同行したいです!」とせがんだのです。そうしたらその方がガイドのツアーが立ち上がってしまい、「これは行くしかない!」と申し込んだわけです。

物好きでなければ参加しないツアーで申込者が既定の人数に届かなかったらしいのですが、観光会社が赤字覚悟で実施してくれました。実際、集まった参加者はオタクばかりで、今まで参加したツアーとはかなり毛色の異なるツアーになりました。

ちなみにどんなオタクがいたかというと、
・国境オタク(男性)
・離島オタク(男性)
・飛行機オタク(女性)
・北方少数民族オタク(女性)
という具合で、僕なぞ凡人すぎて口あんぐり状態でした。かといって嫌な感じな人はおらず、終始笑いの絶えない旅行でした。

どんなところがあったのか写真で紹介していきます。


ユジノサハリンスクにそびえ立つレーニン像です。手前のご老人(日本人です)は終戦時にここにいたそうです。終戦というとふつう1945年8月15日をさしますが、その後もサハリンではソ連軍と日本軍の戦闘が続いていて、当時12歳だったこのご老人は1945年8月22日にここで空襲に遭ったのです。



神社の跡です。今にも倒れそうな鳥居ですが「皇紀二千六百年」とはっきり刻まれていますね。1940年のことです。


バスの中から撮影しました。日本領時代に敷かれた鉄道です。ちなみにこれは樺太東岸で、間宮林蔵は樺太の地図を作成するためにこの沿岸を測量したとのことです。


ポロナイスク郷土博物館の庭には間宮林蔵のプレートもありました。


王子製紙の工場跡です。ほとんど廃墟と化していますが、一部は変電所として使われていました。飛行機オタクの女性が「日本人はこういうの見るとすぐ『ラピュタみたい』って言うけど、あれは作り物! これは浪漫なんだよ!!!」って名言吐いてました(笑)。ロ、ロマンなんだ……。
本人いわく廃墟オタクではないとのことですが、いやー相当なものだと思います。

明日に続きます。

2時間でおさらいできる日本史 近・現代史篇

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ついに見えた飛雲閣

先週末は京都に行っていました。今日はそこで見たものを写真で紹介していきます。

まずはじめは編集者さんと打ち合わせです。

まだ企画段階のものですが、実現すれば最高の参考書になるんじゃないかとワクワクしているところです。

つぎに妙心寺に行きました。たいへん大きな寺院で、中にいくつもの塔頭(たっちゅう)とよばれる子院があります。その一つである退蔵院はこの絵があることで有名です。

複製品なうえにガラス面の反射で見えづらくてすみません。如拙(じょせつ)作の『瓢鮎図(ひょうねんず)』です。入試でも写真問題で出題されますね。

ここには枯山水庭園がありました。

退蔵院を出て本堂に向かいました。内部は撮影禁止でしたが、1箇所だけ穴があり外から天井部分を撮影できました。

この作品は入試では出題されませんが、『雲龍図』という狩野探幽の作品です。巨大サイズの円形に描かれた龍の絵で、絵を見上げながら円周にそって歩くとまるで龍が動いているように見えます。計算ずくだったのでしょうか。

最近、陶芸にハマっているため本阿弥光悦に興味を持つようになりました。入試では「舟橋蒔絵硯箱」の作者として問われるほか、徳川家康から洛北鷹ヶ峰に土地をもらって芸術村を作ったことが出題されます。僕が興味を持っているのは彼がつくった茶碗なのですが、出題されず非常に残念です。というわけでその「鷹ヶ峰(たかがみね)」に行ってみました。
本阿弥光悦が住んでいた家は、現在お寺になっています。これはその入り口です。

中に入ると、この山が「鷹ヶ峰」だという標識がありました。

まあなんてことない山ですね。今回は打ち合わせがあってスーツで来ていたため、さすがに登りませんでした。この周囲の寺院を回った後、大徳寺に向かいました。

ここは相当大きな寺院でやはり塔頭がいくつもあります。その一つ龍源院は入試では問われませんが、枯山水庭園がみごとで気に入ってしまいました。写真をごらんください。

滹沱底(こだてい)


一枝坦(いっしだん)


龍吟庭(りょうぎんてい)


東滴壺(とうてきこ)。これは戦後に作られた坪庭です。


ここにも龍がいました。

そして夜は限定公開中の西本願寺飛雲閣を見に行きました。2月に行った時に見られなかったので、今回の京都旅行はこれが本命でした。

ここは豊臣秀吉がつくった聚楽第の遺構だと言われています。おもしろいのは船入(ふないり)です。

ここに船を止めて階段を上がって部屋に入ることができるようになっています。でも本当にすごかったのは、別の建物の白書院でした。いくつもの部屋がどこもかしこも障壁画で囲まれており、その豪華さに目がくらみました。残念ながら撮影禁止だったので興味がある人はこちらのリンク先で写真をごらんください。

聴くだけ日本史-美術史編-

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畿内めぐり(10)-平城京-

長かったこのシリーズも最終回となりました。というか「まだ続いてたの?」ですよね……。すみません。

今井のあとは平城京に向かいました。前に来たときにはまだ大極殿が再建されておらず、資料館を見ようとしたら休館日だった(!)というおきまりの地雷を踏んだ場所なのです。今回の目的はその資料館を見ることと、高さが9階建てのビルに相当するという大極殿を体感することでした。

お作法どおり南からアプローチしました。まずは朱雀門です。大内裏の正門ですね。

でかいです。左下に警備のおじさんが歩いているのがわかるでしょうか。この門をくぐると大極殿がはるかかなたに見えました。
↓こんな感じです。

電車が走っているのが見えますか? この踏切をこえてずーっと進んでいかなければなりません。大内裏の広さが感じられるでしょうか。


平城京の広さは東西4.3㎞、南北4.8㎞です。その中の北部にある大内裏(上記の図のオレンジ部分)だけでもこんなに広いのです。
そしてこの大内裏の正殿が大極殿です。

これまた立派ですね。周囲の家とくらべるとよくわかると思います。

さて、残念なお知らせはここからでした。中に入ると天皇が座る場所である高御座(たかみくら)がメンテナンスのために取り外されていたのです。なんでも2月はお客さんが少ないそうで、その隙をぬってのメンテナンスなんだそうです。やられました。

この後はすぐそばにある資料館を2つまわり、奈良国立博物館に向かいました。こちらはさすがの展示でした。仏像がこれでもかというほど並び、さすが奈良だなあと感じ入りました。経典も紺紙や紫紙に金で文字を書いたものがあって、どう考えても仏教より美を追究しているとしか思えませんでした。しかし、いずれも撮影禁止なので写真はありません。

というわけで、次回は3月の旅行をご報告したいと思います。

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畿内めぐり(9)-今井-

飛鳥のあとは北上し、戦国時代の寺内町であった今井に行きました。寺内町とは一向宗(浄土真宗)の寺院を中心とする町で、周囲を濠でかこんで防衛しています。古い町並がのこっていて、もう20年以上前から訪れたいと思っていた町なのです。
まず、全体はこんな感じです。

町を取り囲む濠の一部がこちらです。

かなり広範囲に古い町並が残っていますが、今も多くの人が生活しています。

町のなかの何軒かの家は、内部が見学できるようになっていました。一番大きな今西家は閉まっていましたが、チャイムを鳴らしてお願いし、なかを見せていただきました。

奥様のマンツーマン解説がすばらしかったです。あまりにも説明がなめらかで、講師として負けたと思わされました。

別の家には5連カマド(?)がありました。

これで料理しているところを想像するとちょっとワクワクしますね。

2時間でおさらいできる戦国史

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畿内めぐり(8)-飛鳥-

奈良県に入って最初に向かったのは明日香村でした。ここはだいぶ前に自転車で走り回ったことがあります。なので今回はその時見逃したところだけ行きました。まずは飛鳥資料館です。

敷地に入ると周辺で見つかった石造物のレプリカが目に入りました。その1つがこれです。

「酒船石(さかふねいし)」と呼ばれているものです。はじめ酒造りのための石組みと思われてこう命名されたのですが、実際には単に庭園に水を引くだけの石組みだったようです。作られたのは斉明天皇のころでした。ちなみに噴水の石組みまであるんですよ。
この「酒船石」は大学入試ではめったに出されませんが、早稲田では記述で出ました。例によって考古学好きの青学でも出されています。

さて、館内に入ると高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画についての展示が目を引きました。もちろんどちらもレプリカですが、古墳内部に入った気分を味わるような展示でした。、しかも二つの壁画のちがいを表にするなど、なかなかおもしろい趣向となっていました。

ほかに目を引いたのはこちらです。

これは写真問題の定番ですね。興福寺仏頭(レプリカ)です。
館内に山田寺の回廊が展示されており、そのつながりで山田寺の本尊であったこの仏頭(のちに興福寺に奪取された)が展示されていたのです。興福寺にある本物は後頭部が見えないようになっていましたが、こちらは丸見えでした。

見てはいけないものを見てしまった気分です。

ここを出た後はキトラ古墳に向かいましたが、途中で天武・持統天皇があったので立ち寄りました。夫婦いっしょに葬られているというのはなかなかイイですよね。しかも形が八角墳です。もっとも一周してみても草に覆われていて八角形であることは実感できませんでした。「天皇陵」ですからもちろん柵の中には入れません。

いっぽうキトラ古墳のほうは天皇陵ではないため、しっかり整備されていて形がよくわかるようになっていました。

きれいな円墳ですね。石室内部にはこんな感じです。

この隣にはキトラ古墳壁画体験館「四神の館」が併設されており、ダイナミックな映像で壁画を紹介していました。それは撮影できなかったので、飛鳥資料館で撮った写真で説明しましょう。

石室内の四方の壁には、東西南北にそれぞれ青竜(せいりゅう)・白虎(びゃっこ)・朱雀(すざく)・玄武(げんぶ)の四神(しじん)が描かれています。

これは白虎です。
高松塚古墳の石室にも四神は描かれていますが、あちらは南面が破壊されてしまったため朱雀がありません。いっぽうキトラ古墳は四面とも絵がのこっていました。その肝心の朱雀がこれです。

まるで「火の鳥」ですね。

そして天井には天体図である星宿(せいしゅく)が描かれています。

野暮ったい表現ですが、なかなかロマンチックなことをしてると思いませんか?

おまけとして先日、ウユニ塩湖で見た南十字星の写真も載せておきますね。

黄色い十字の端に星が4つあるのが見えるでしょうか。すみません。三脚なしのコンデジではこれが限界でした。さすがにこれは入試に関係ありません。

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畿内めぐり(7)-大阪府立弥生文化博物館-

大阪府立弥生文化博物館は文章だけの説明をへらし、具体的にわかる展示をこころがけていました。今日はそうした例を二つ紹介します。
奴国王が光武帝からもらった金印は「漢委奴国王」と記されていることが有名です。「倭」と書いちゃいけないことがポイントですね。ところであの金印、なぜ文字部分がへこんでいるのかわかりますか? 現代のハンコは文字部分が突き出ている「陽刻」であるのに対し、金印はその逆で「陰刻」です。
実は使い方が今とはちがっていたからです。当時はこんなふうに使っていました。

まず上のような木や竹を糸でつなげたものに手紙を書きます。それをくるくる巻いてひもでしばり結び目を解かれないように粘土で覆い、そこに印を押しあてます。この粘土が壊されてなければ手紙が誰にも読まれていない証しになるというわけです。

押しあてた印が陰刻なので、粘土側の文字は浮き立っています。これはなかなかカッコイイですね。

次に紡錘車(ぼうすいしゃ)についてです。これは石や土でつくった穴のあいた円盤で、糸をつくるのに使います。授業ではその使い方を説明するのが難しくて困っていたのですが、この博物館では人形と映像で説明していました。

流されていた映像を撮ったものなので質が悪くてすみません。

一度これで糸作りを体験してみたいものです。

ここまでで大阪をあとにし奈良県に入りました。

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畿内めぐり(6)-池上曽根遺跡・大阪府立弥生文化博物館-

堺市博物館を見た後は池上曽根遺跡に向かいました。

ここは弥生時代の環濠集落として問われる遺跡ですが、年輪年代測定法のエピソードが有名です。もともとこの遺跡は、出土した弥生土器の特徴からいつごろのものかが推定されていました。ところが1985年に大型建物跡が見つかると、その推定が間違いだったことがわかってしまいました。というのは建物に使われた柱の中に良い状態のものがあり、年輪年代測定法でその伐採年が紀元前52年だと判明したからです。これはそれまで推定されいていた時期よりも100年も古いものでした。このため弥生時代の土器編年を見直さなければならなくなったのです。遺跡に隣接する大阪府立弥生文化博物館にはその柱のレプリカが展示されていました。

ところでここの博物館は「弥生文化」と限定しているだけあって、水稲耕作についてわかりやすく展示していました。

木製農具の木鍬(きくわ)が触れるようになっていました。想像以上に堅い木でできており、簡単に折れることはなさそうでした。といってもひびが入ってしまったようでテープで補修してありますね。


こちらは木鋤(きすき)です。まるでスコップですね。


田植えの様子がよくわかるジオラマです。


現在とはちがって稲が実る時期にバラツキがあったため、実ったものから穂首刈りしていったようです。


左の二人は脱穀(だっこく)をしています。稲穂を木臼(きうす)に入れて、竪杵(たてぎね)でつくと白いお米になります。右は箕を使って籾殻を風で飛ばしている様子です。

なかなかの充実ぶりですが、湿田と乾田についての説明がまったくありませんでした。前々から疑問に思っていたこともあり、学芸員に来てもらって直接お話を聞くことにしました。すると思わぬ答えが返ってきました。要点だけ言えば、田んぼの水位は上下するため、現在は湿田と乾田の違いを言わないそうなのです。水がゆきわたりやすい低地から水田が開発されていき、灌漑技術が高まるにつれて高地でも水田が開かれていったようです。なるほど、教科書や入試は古い学説のまま出題しつづけているわけですね。はからずもこんなところで「入試は入試」と割り切る必要性を再認識することになりました。
学芸員の中尾さん、丁寧なご説明をありがとうございました。

難関大用語集解

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畿内めぐり(5)-大仙陵古墳・堺市博物館-

海外に長期出張していたため間が空いてしまいましたが、京都・大阪・奈良の旅行記をつづけます。

大阪歴史博物館で1日つぶした後は、仁徳天皇の墓と伝えられる大仙陵古墳(大山古墳)に向かいました。最寄り駅で降りて自転車で古墳にたどり着くとそこにはこんな表示がありました。

なんと悩ましい表示でしょう。左右どちらから回っても古墳の正面まで1.4kmだと! とりあえず右から回ってみました。


しかし見えるのは濠と樹木ばかりで、前方後円墳らしいイイ絵が撮れません。とりあえず古墳に隣接する堺市博物館に入ってみると、ここにもボランティアガイドさんがいたので、お話をうかがいながら見学しました。


これは古墳の副葬品です。左端が鍬形石(くわがたいし)の欠けたもの、右端は車輪石(しゃりんせき)といいます。以前に沖縄で貝輪という腕輪を見ましたが、古墳時代にはそれを石で作るようになったのです。さすがに日常生活ではつけられず、あくまでも副葬品です。どちらもめったに出題されませんが、青山学院大では注意です。両方あわせて「碧玉製腕飾り(へきぎょくせいうでかざり)」といって、これは早稲田などでも問われています。「碧玉」を書かせる問題で、立命館大でも出ました。

古墳の副葬品は時期によって変化したことがよく問われます。5世紀ころの中期古墳に多くなった風葬品に武具がありますが、その一つ「短甲(たんこう)」を見てください。

以前に群馬県立歴史博物館で見た短甲は特殊なものでしたが、こちらはよくある短甲です。

中期古墳の副葬品にはほかに須恵器(すえき)もあります。須恵器は朝鮮半島の技術で焼かれた灰色の土器として頻出ですが、受験生の盲点となりがちなのはその時期です。5世紀から作られるようになりました。大阪府には国内最大の須恵器生産の拠点「陶邑窯跡群(すえむらかまあとぐん)」がありました。そこから出土したものがこちらです。

堺は室町時代には自治都市となり、鉄砲の産地にもなっていきます。そのため町のジオラマや火縄銃なども展示されていました。僕にとって盲点だったのは、堺市出身の人物にこのお坊さんがいたことです。誰かわかりますか?

奈良時代、僧尼令に違反しながらも民間布教にはげみ、大仏造立に貢献して大僧正(だいそうじょう)となった行基です。

きめる!センター日本史

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